宵に花、舌に色
それはそれは綺麗なんですよ、と誇らしげに笑った宿屋の女主人の言葉は嘘ではなかった。
宿からほど離れた丘に植えられた木は、ふうわりとした花をいくつも咲かせてそこに立っていた。
「まあ」
木の真下に立ち、感嘆の声を上げたのはアンジュだった。後ろを歩いていたリカルドも横に並ぶと、ほう、と声を上げる。
「立派なものだ」
「ええ、本当」
木自体は珍しい種類のものではない。レグヌムかナーオスの方面では、街道沿いに植わっているような、ごくありふれたものだった。しかしそれらとは違うのだとすぐにわかる。
この種類の花は大概八重咲の白い花を咲かせるのだが、頭上に咲き誇る花は濃いピンク色をしていた。上質のシフォンタフタを寄り集めて作ったような繊細な花弁は、ふわふわと幾重にも重なり綻び美しく咲いていた。
中空には丸い月が浮かんでおり、月明かりに照らされる花は見惚れてしまうほどに美しかった。女主人が誇らしげに語るのも頷ける。
街を発つ前に一度見てみたい、というアンジュの願いで訪れたのだが、どうやら来るだけの価値はあったようだ。
「こんなに綺麗なら、何か食べ物を持って来ればよかったかしら」
「花見酒か、悪くないな」
でしょう? とアンジュが笑う。葡萄酒と軽いつまみでもあれば、もっと風情も出ただろう。惜しい事をした、と呟くと、本当ですね、と声が返る。
見頃は過ぎてしまったのだろう、花の間からいくつか葉が出ているのも見えるし、風にそよげばはらはらと花弁は散る。それでも美しいのには変わりはない。
花弁の向こうから月明かりが透けて、柔らかな花弁を際立たせている。かつての天上界にもこれほど美しい景色はなかった。お互い言葉もなく、ただただ見惚れていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか、アンジュが口を開いた。
「ね、明日皆にも」
教えてあげましょう、とでも続けようとしたのだろうか、言葉は最後まで出なかった。どうかしたのだろうかと肩下にあるアンジュの顔を覗き込むと、何事もなかったかのように笑い、口を開けた。
「花弁が」
アンジュの舌の上に、桃色の花弁が乗っていた。
舞い落ちたのが口に入ったのだろう。真っ赤な舌の上に、そこだけぽつんと淡い色が乗っている。
「喋ってばかりいるからだ」
呆れたようにリカルドが笑い、頬へ手を伸ばす。そのまま頤を持ち上げると、ちろりとはみ出た舌を食んだ。
「ん」
不意の口付けにアンジュは一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに眼を閉じた。そうされるのが当然であるかのように、ごく自然に。
ぴたりと重なった唇の奥、リカルドの舌がアンジュの舌を浚う。尖らせた舌で歯の裏や付け根をくすぐった後、薄く張り付いた花弁を舌先で確かめた。そのまま口内をゆるりと舐め、花弁を喉へと滑り落とす。
アンジュの喉が上下するのを確認すると、気が済んだかのように唇を離す。去り際に軽く音を立てるのも忘れない。
「もぅ」
唇を重ねていたのはほんの僅かだったが、アンジュの目元はうっすらと赤くなっていた。濡れた唇が月明かりに照らされて、つやりと光った。
「悪戯に舌なんて見せるからだ」
唇の端だけを吊り上げてリカルドが笑う。その笑みもまた薄く照らされている。元より青白いといわれる頬には僅かの赤みもない。これも経験の差なのだろうか、とアンジュは内心唇を尖らせる。
「しかし綺麗なものだな」
何事もなかったかのように花を見上げる人に続いて、視線を上げる。さわ、と風が花と葉を撫でていく。互いの髪や服の裾も同じように浚われ、揺れる。
「こういう時は君のほうが綺麗だ、とか言うものなんじゃないですか?」
頭ひとつ高い位置にいる人に向かい、ぽつりと零す。先ほどの仕返しとばかりに意地悪く微笑んでやると、困ったような笑みが返ってきた。
「そろそろ戻るか」
「ええ」
時刻は深夜を回っている。明日も昼前には街を発たなくてはならない。
月明かりがあるとはいえ夜道に変わりはない。転ばないようにと差し出された手を取り、ゆっくりと歩を進める。互いの革靴が草を踏む音が聞こえる。
「ね、リカルドさん」
名前を呼ばれた人がこちらを見る。細面の顔が月明かりに照らされて、その陰影を濃く見せている。
「もう一回」
手を取ったまま距離を詰める。先ほど並んでいた時よりも近くで、アンジュはリカルドを見つめる。少し背伸びをするような格好で何を求めているか伝わったのだろう、腰に手が添えられた。
「セレーナ」
甘く低い声で名前を呼ばれる。どんな美辞麗句よりも甘く蕩かされる言葉。はらりとまた花弁が舞う。それが頬に触れるか否か、また唇を重ねた。