だから、さようなら。

少しだけ期待していた。

「これ、美味しいですよ」

多分、あれはガルポスでのことだ。自分用に買ったジャムを薦めたら、あなたも食べてくれた。
トーストの端に乗せられた果実が口の中へ運ばれ、咀嚼され、飲み込むまでの流れをこっそりと目で追う。

「ああ、これは美味いな」

薄い唇が嬉しそうに綻ぶたびにわたしはなぜだか誇らしいような、満ち足りたような気持ちになった。

「甘さがくどくなくて食べやすい」

「でしょう? 気に入ってくれると思ったんです」

食べ物に関しては舌が肥えているわけでもない。教会では贅沢な料理などろくに食べることは出来なかったし、清貧をモットーとして過ごしていた。

わたしは甘いものが好きだけれど、あなたは好きではない。
わたしはトーストにはジャムを塗るけれど、あなたはバターしか塗らない。
わたしはアシハラ料理は好きじゃないけど、あなたは結構好きみたい。
わたしはコーヒーに砂糖もミルクも入れるけれど、あなたはそのまま飲んでしまう。

それくらい好みが違う。だからこそ、わたしの選んだものをあなたが美味しいと言ってもらえるのが嬉しかった。
もちろん美味しいと言ってもらえるものばかりじゃないけれど、一瞬でも喜びを分かち合えるのが嬉しかったのだ。

レグヌムで食べたサンドウィッチ。
ガラムのレストランで食べたチーズとワイン。
アシハラで食べたお蕎麦。
ガルポスの露店で買ったフルーツジュース。
マムートで食べたフィッシュアンドチップス。
テノスの宿で食べたウサギのシチュー。
サニア村でご馳走してもらったチキンソテー。

一生のうちのほんの一瞬だけでも、あなたと美味しいものが食べられて、一緒に美味しさを分かち合うことが出来てわたしは嬉しかった。仲間たちと囲む食卓は賑やかでかしましくて、本当に満ち足りた時間だった。
お店で食べたものだけでなく、わたしが作ったものを美味しいと言ってくれた時なんて本当は飛び上がるほどに嬉しかった。
おかわりしてもらえた日は、寝る前まであったかい気持ちが続いて茹で上がったジャガイモのようにふかふかしていたの。
面と向かって不味いと言われたことはない。おかわりしてもらえない日は融けて駄目にしてしまったチョコレートの気分になった。
だからわたしは、少しだけ期待をしていたのだ。お互いの間に絆が生まれていることと、わたしたちは少なからず思いあっているのではないか、と言う事に。


世話になったな、と一言だけ残してあなたは行ってしまった。
どこへ行くのかは教えてもらえなかったし、どうするのかと聞かれることもなかった。もちろん一緒に来てくれ、なんて甘い言葉もありはしなかった。
恐らくわたしたちの間に絆はあったのだろう、と思う。互いを信頼していたし、良好な関係であったことは間違いないはずだ。
けれどそこから先に踏み出すことはなかった。コップいっぱいに注がれた沢山の信頼は、溢れるまでには至らずに終わってしまった。
一緒に美味しいものを食べられたから、食事の趣味が合ったから思いあっているなんて馬鹿みたい。
わたしはもうふかふかのジャガイモにはなれない。融けて駄目になったチョコレートにもなれない。
ひとりきりになった最初の朝、あなたを真似してなにも入れないコーヒーを飲んでみた。

「……苦い」

自分でも驚くほどに低い声が出た。コーヒーは驚くほど苦くて、ちっとも美味しくない。どうしてこんなものをすいすいと飲めたのだろう。少し信じられない。
豊かな香りは鼻先をくすぐって、あの人を思い出させる。意を決して、もう一口飲んだやっぱり少しも美味しくない。
急いで砂糖とミルクを入れてかき混ぜると、見慣れた淡い茶色に変わる。香ばしさの中に甘さが混ざった匂いは、それだけで安心するから不思議だ。
口に含めば甘さにほうと力が抜けていくのが分かった。尖った苦味も酸味もない、まろやかで好みの味。とても美味しくて、少しだけ涙が出た。

だから、さようなら。

再録 初出:2018/10
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