帰還(あなたとならば)
街道は街に近づくにつれて、整備されたものになっていく。
途中にあったナーオスまでの距離を示す立て看板の文字は雨風に晒されたせいだろう、薄く滲んで上手く読めなかった。書き直したほうがほうがいいですね、とアンジュが言うのに対し、リカルドは頷きだけで返した。
陽は高く昇り、木陰の色も濃い。日差しがきつい季節ではないが、体力を消耗するのは避けたかったので、なるべく影を歩くように努めた。街道側はリカルドが歩き、野山側はアンジュが歩く。以前と変わりのない場所取り。
あれからしばらく経つが、お互い特に変わった様子はなかった。
アンジュは相変わらず白い法衣を纏い、青い巻き髪を頭の上でまとめているし、リカルドは黒いコートを羽織り、青い髪紐で結わえた黒髪もそのままだ。
まるであの時の延長線上のようだ、と思う。実際はもう二年の月日が流れていた。
その間にルカは高等学校に進学し、スパーダは海軍士官学校へ入学していた。
イリアは本格的に故郷で学校を作る算段に入り、エルマーナは有名なギルドに入ったという。すべて自分の目で確認したわけではない、手紙で知ったものも人づてに聞いたものもある。
アンジュがアルベールに付き従いテノスに向かったという事は知っていた。兄の残したグリゴリの里に出入りするようになり、変わらず傭兵家業を続けていたある日、アンジュから手紙が届いた。
簡単な挨拶と、簡潔な内容。そして日付と場所が書いてあるだけの手紙。指定された場所は、レグヌムとナーオスの間にある小さな街だった。
わたしと一緒にナーオスへ行ってください、という字は何の震えも無く紙の上にあった。
そして指定されたとおりの場所と時間に、アンジュは待っていた。
切り株を椅子代わりにしていたアンジュは、リカルドの姿を見つけるとふわりと立ち上がり、お久しぶりですと笑った。適当に挨拶を交わしてしまうと、すぐに街を出た。ナーオスはもう数時間で見えてくる。
「君も酔狂だな」
ぽつりとリカルドが呟く。目線はそのまま前に向けられていた。左側を歩くアンジュもまた視線を動かさない、見据えているのは前だけだ。
「あなたも大概だと思いますよ?」
ふふふ、と小さく笑いを零す。久方ぶりに寄越した手紙の内容を真に受けて、来るかどうかも分からない場所に向かう。
相変わらず律儀な人ね、とまた笑った。口元に手を当てて笑うアンジュに、リカルドは片眉を上げて視線だけを寄越した。
「ひとりで何かあったら困るだろう」
声はすとんと落ちた。風が頭上の木を揺らし、さわさわと涼やかな音をたてる。木の葉の間から漏れてくる光が、まだら模様を作って遊ぶ。黒地は所々明るく照らされ、白地は所々黒く沈み、ちかちかと瞬く。
「何故?」
歩みが止まる。アンジュに遅れて半歩先で止まったリカルドが、ゆっくりと振り返る。
それに合わせて髪とコートの裾も翻り、まだらに照らされる。木々のさわめきに心臓の音が混ざっているような気がするのは、きっと気のせいではない。
「守る、と決めたからだ」
木漏れ日の中、ようやく視線がかちあう。じっと見据える目は互いだけに注がれ、揺るがない。
「……そうですね」
あの時交わした契約はとっくの昔に終了している、という事は分かっていた。最初は保身のために、次は償いのために、最後は互いの目的のために。
再び、歩みを進める。アンジュが歩き出すのにあわせ、リカルドも動き出す。そこからの道程の間、アンジュはぽつぽつと話し始めた。
長く過ごした街だというのに、戻ることが決まったときはひどく不安だったという事。そしてその不安を打ち消すために咄嗟にペンを取った事。
再び歩き始めてどれだけ経ったのだろう、僅かにナーオスの街が見え始めた。遠目からではあるが、アンジュがかつて破壊した聖堂も完全に修復されているのが見える。じゃり、と靴底が砂をなじる音がしたのは、アンジュの足元からだった。
「怖いか」
リカルドの言葉に、アンジュが瞬きを繰り返す。一瞬だけ瞳が泣きそうに揺らいだが、すぐに笑みに変わった。
「いいえ」
理由は言わずとも伝わるだろう、そんな笑み。それを受けて、リカルドも満足そうな顔になる。
隣り合った手が触れ、どちらともなく重なり合う。指を絡めるその戯れ方は一見恋人同士のように見えるだろう。今一度強く握り合い、そして柔く絡み合う。
並んだ大小の人影が2つ、並んで歩き出す。互いの存在を確かめ合うように絡めた指は、そのままだった。