足跡など

「リカルドさん。今日、お誕生日なんですよね」
おめでとうございます、とアンジュは頭を下げた。宿の廊下で相対する二人の脇を従業員が通り過ぎていく。
「よく知っていたな」
彼女の言うとおり、今日はリカルドの誕生日だった。言葉からややあってアンジュは顔を上げた。そこにあるのはやや気まずそうな顔、少なくとも人の誕生日を祝うのには合わない。
「……傭兵ギルドに照会したんです」
ギルドでは簡単な個人情報ならすぐに照会ができる。雇うにあたり依頼人側が出身や経歴を確認しておくためだ。リカルド自身は書面を見たことはないが、恐らくそこに生年月日も記載されていたのだろう。
「ごめんなさい、勝手に」
「別に謝ることではないだろう」
誰でも照会可能な情報なら、気に病むことではない。そもそもリカルドもアンジュについて色々と調べているのだ。そう言ってもなおアンジュの表情は硬い。
「それで、わざわざ調べたからには、なにか祝ってくれるのか?」
わざと茶化すような口調で言う。すると次は困ったような顔に変わり、ええと、と口ごもった。
「いろいろ考えはしたんですけれど」
指を口元に寄せ、またしても言いよどむ。普段のアンジュらしさはどこかへ消えてしまったかのようだ。
「なにが気に入って貰えるのか、分からなくて」
珍しい。普段のアンジュなら食事なり贈り物なり、なにかしらの提案をしてきそうなものだ。
だというのに、今のアンジュはただどうしていいか分からないと言いたげに眉を下げる。迷っている、惑っている。
そうまで気まずそうにされては、リカルドも居心地が悪くなる。
普段ならさっさと話を切り上げて立ち去るが、今回は自分の誕生日が話題の中心なのだ。無下にするわけにもいかず、小さく息を吐いた。
「……なら、俺が決めても構わないか」
「ええ、もちろんです」
リカルドの言葉にアンジュはようやく笑顔を見せた。その背後、開けた窓からざん、とさざめく音がした。
「そうだな」
――海へ行かないか。
思いつきで出た言葉は、自分でも驚くほどにさらりと落ちた。

憧れのガルポス・リゾートのビーチ……というには砂浜は少々汚れていた。
聞けば観光客向けの整備されたビーチはここではなく、もう少し南のほうらしい。今からそちらへ向かうのも面倒で、宿の前に広がる砂浜を歩いている。
濡れた砂地を踏む。海水はぬるく、捲った裾から出ている足首を舐めた。
主に地元の者が使うからだろう、大きなゴミは少ないが岩や流木はそのままだ。波は寄せて返し、なにかを流しなにかを寄越す。
「リ、カルドさん、待ってくださいっ」
背後から声がかかる。スカートの裾が濡れないように持ち上げながら歩いているせいか、アンジュの足取りはおぼつかない。
荷物になるものはすべて宿に置いてきたため、ともに軽装だった。お互い上着を脱いで来たため、上半身はそれぞれワイシャツとブラウスだけ。もちろん足元はブーツでなく、宿で借りたサンダルだ。
二人揃って浜辺まで来て、ただ歩いている。自身が言い出したとはいえ、誕生日の贈り物というには少々色気のない行為と言えた。
海水を吸った砂は体の重みだけでたやすく沈み、一歩進むたびにバランスが崩れてしまう。
「大丈夫か」
「砂浜って、こんな歩きづらいんですね」
手を差しだすと、素直に握り返される。
一歩、二歩と距離が縮まる。サンダルから飛び出た爪先がこつん、と当たった。
「わたし、砂浜を歩いたの初めてです」
「俺もだ」
そう言うと、あら、と短い声があがった。振り向くと目を丸くしたアンジュがいる。
「こういう場所は慣れていらっしゃるんだと思っていました」
西日に照らされた横顔が、やわく微笑む。どういう意味だと聞き返しかけ、やめた。
波の音が響く中、再び歩き出す。足跡は作った先から波に消された。裸の足首を洗う海水は少しずつ冷たくなっているように感じた。
時折足元を確かめるように見つめると、それにあわせて影も揺れた。そのうち歩くのにも慣れたのだろう、アンジュはリカルドの隣に並んだ。いつのまにかスカートの片側を結んでいる。
同じ歩様で砂浜を歩く。飽きもせずさくさくと足跡を作り、ざざんと波に掻き消される。太陽はすでに傾きはじめており、あと数分もしないうちに水平線の向こうへと沈んでいくだろう。
「ねえ、リカルドさん」
ふいに呼ばれ、視線だけを向けた。隣に並ぶ女性は眉を下げて笑っている。
「こんなのでいいんですか」
なにがかは聞くまでもない。
「だって、せっかくのお誕生日なのに」
「今更誕生日を喜ぶような年じゃないだろう」
リカルド自身、祝われたいという気持ちは微塵もない。ただなんとなく、海に行きたいと思っただけだ。
「それに、物が残っても困るだけだ」
声はひどく素っ気なくなった。繋いだ手が一瞬だけ強く握られた気がしたが、構わず繋いだまま歩を進める。
数か月前、アンジュの誕生日にも同じことを言った。
贈り物を貰うのはもういい、とアンジュは言った。伏し目がちに呟くその言葉の奥底を、リカルドは知らない。ただ彼女がそれ以上を求めないのなら、無理強いをしたくなかった。
だから、ケーキを二つ奢るという単純な選択肢を取った。ひと時の喜びも腹に入ってしまえば消える、それで終わり。
海へ行って浜辺を歩くという選択も同じだ。ただ、歩くだけ。夕日はどんどんと水平線の向こうへ落ちていく。陽が落ちたら終わり、それきりなにも残らない。
「……わたしは」
ぽつりと声が落ちる。それは潮騒の中でもよく聞こえた。
「わたしは、残ると思います」
指先に力が込められる。深みを増した夕日は二人の間を赤く染めている。まるで血のように赤い光はアンジュの横顔を照らしていた。
薄紫の瞳は赤色の中でより一層濃い色合いを見せる。髪はそれこそ夕日に追いやられる空のように、青と赤が入り混じっていた。
見たことのない色彩に目を奪われ、息を呑んだ。
「……そうだな」
今更になって己の選択を悔いた。消えてなくなるのなら食べ物のほうがどれだけ気楽だっただろう。
うまく歩けない砂浜、砂地に足跡を付ける感触と繋いだ手の感触。細い指が自分の指へ絡められ、握り返される強さ。ぬるい海水の匂いすら。こんなもの残るに決まっているのに。
あのカフェでの出来事も同じだ。ケーキを二つ食べたこと、フルーツの味、チョコレートの苦み。テラス席から見えた景色、酸味が強いコーヒーの味。互いの胸に、落としようのない染みとして残る。
「……もう暗くなる。戻るぞ」
「はい」
手を離すことはしなかった。互いにそれきり口を開くこともなく黙々と歩くだけだったが、不思議と居心地の悪さはない。
途中、爪先に貝殻が触れた。本来なら思い出だと拾ったりするのかもしれないが、そんな気持ちにはなれなかった。アンジュも同じなのだろう、一瞬だけ視線を落としたがまたすぐに前を向いた。
足首にまとわりついた砂も、宿に戻れば落とすことになる。体に染みついた潮の匂いもシャワーで流れる。同じ時を過ごした痕跡はすべて押し流されて、ただいつも通りの一日に戻るだけだ。そして遠い未来にふと、この日のことを思い出すのだろう。
ざざん、波の音の中でなにかが聞こえた。遠くで鳥が鳴いている。もうすぐ夜が来る。

初出:2022/08/07
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