空洞を埋める

二十七年間、いつ死んでもおかしくないという人生を送ってきた。
二十七年は大げさかもしれないが、十歳より前には傭兵になるための訓練を受けていたのだから少なくとも十七年以上はいつ死んでもおかしくない人生を送っていることになる。
訓練中に隣の家の子供が死んだ。初めて出た戦場で一つ上の少年兵が死んだ。十七の夏に父親が戦死した。二十三の冬に受けた依頼では同行していた後輩が死んだ。
身の回りの人間がことごとく死んだ。訓練兵時代の知り合いの大半は死んだし、同じく傭兵だった父も死んだ。同僚や後輩と呼べる人間も大分減った。傭兵ギルドに立ち寄って誰それが死んだという話を聞かない日はなかった。
「知った人がいなくなるのは寂しいわね」
と女は頭を撫でてくれた。五つ上の女だった。
思うままに甘やかしてくれた女も最後にリカルドを捨てていった。愛らしいと思って拾った犬が思いのほか大きく育って邪魔だったのだろう、愛し合った日々はなんだったのかというくらいにあっさりと捨てた。
愛情がなくても人間は生きられる。人肌寂しいなら女を買えばいいのだし、眠いと思うのなら眠ればいい。腹が減れば旨いものを食べればいい。愛情の代替品はごまんと存在する。
時折鬱屈そうな顔をした生き物が脳裏を掠める以外、リカルドはそう生きてきた。そこいらの人間と同じありきたりで面白みのない人生だった。
そして死ぬときはあっという間に一片の後悔も残す間もなく死んで、誰かの耳に届くのだろうと思っていた。


紙にペンを走らせる。夜空に似た色のインクは白い盤面を滑り文字を書きつける。最後の一行を書き終え、インクが乾くまでの間に筆記具を片付けた。
「なにを書いてらっしゃるんですか?」
ふと声がした方を向けば、アンジュがいた。インクよりもさっと青い髪が揺れる。
「覚え書きだ」
短く答え、テーブルに視線を落とす。先ほどまでリカルドが書きつけていた帳面には、人の名前が並んでいた。ページの中ほどに書かれた名前は二つ、そこだけが真新しいインクでつやつやと存在感を放っている。
リカルドの隣に腰を下ろすとアンジュはまあ、とだけ言った。何の覚え書きかは言わずともわかるのだろう。インクが乾いたのを確認して帳面を閉じる。
「……お知り合いですか?」
ややあった間の後、アンジュが切り出した。
「訓練兵時代の、同期だ」
どうして口にしたのかは自分でも分からなかった。ソファに身を沈めて、大きく息を吐く。
「二つ上だから三十手前か。腕のいい狙撃手だった」
歳に関係なく分け隔てなく接する少年だった。特段体が大きいわけでもないのに、喧嘩の仲裁に入っては返り討ちに遭うこともしばしばあった。
大よそ傭兵には向いていない、お人よしを体現したような男だったが、どうして戦場では格別の働きを見せた。とりわけ銃の腕は群を抜いており、スコープなしでも木陰に隠れた敵の頭を的確に打ち抜くほどだった。
俺はお前みたいに体がでかくないから銃の腕を磨かなきゃな、というのが彼の弁だ。今思えば体の大きさが銃の腕の良しあしに関わるとは思わないが、当時十二になるかどうかだったリカルドは素直にすごいと思ったものだ。
そんな同期が死んだのは戦場ではなかったという。死因は焼死だ。家が火事になったという。
「じゃあ、もうひと方は」
アンジュの問い。リカルドはわずかに目を伏せると、閉じられた帳面に目をやった。
「同期の、妻だそうだ」
あ、と隣に座るアンジュが息を呑んだ気配がした。
同期が結婚したことなど、リカルドは露とも知らなかった。
ギルドの組員が話すところによれば、数年前に結婚し新居を設けたという。仲睦まじく暮らしていたが、火事に遭い夫婦共に亡くなったという。
妻は足が悪く、それが縁で出会ったのだと組員は言った。恐らく逃げ遅れた妻を助け出しに火の中へ入ったのでは、とも。自分より人を優先するような男だ、有り得ない話ではない。
人の生き死にに良いも悪いもないが、だとすればあまりにもひどい結果ではないか。
知った人が死ぬのには慣れている。
隣の家の子供も、年上の少年兵も、父親も、後輩も死んだ。
現世の兄は生きているが、前世からの兄も死んだ。
人はいずれ死ぬものだ、それは避けようがない。こんな生業をしているが故に、直面する確率は普通の人より少しばかり高いだろうが、ほんの少しの差だろう。
「大丈夫ですか」
小さな手がリカルドの背に触れた。触れられたそこから服越しにじわりと熱が伝わる。
組んだ手を額につけて俯き、息を吐いた。長く細い息になった。すべてを吐き出して、もう一度深く肺の隅々まで空気を吸う。
「……今回は少しばかり、堪えた」
別段仲が良かった訳ではない。二つ上の彼は友人が多かった、リカルドもそのうちの一人だ。
何年も逢っていないリカルドより悲しんでいる人もいるだろう。両親は健在だったか、兄弟もいただろう、妻の方の縁者もいるはずだ。彼らより自分の方が悲しんでいるなんて思わない、悲しみを比較するほど馬鹿げた行為もない。
ただただひたすらに、無念だと思った。
「知った人が亡くなるのは、誰だって辛いです」
そうアンジュは言う。かつての女と同じ事を言うのだなと思ったが、不快感はなかった。
背中に添えられた手はゆるゆると動き、背を撫でる。逆立った毛を落ち着かせるように、ゆっくりと上下に動かされる手に導かれるように、ゆらりと体が傾いだ。そのままアンジュの膝に頭を預けると、ソファに仰向けになる。片方の足は乗り切らず落ちたが、面倒なのでそのままにした。
後頭部に柔らかな感触を感じながら、視線を上げればこちらを見下ろすアンジュと目があった。一瞬だけ交わった後は、腕で顔を覆う。視界は黒く暗転し、また大きく息を吐いた。
ひたり、頭頂部に手が触れる。撫で付けた髪の流れに添うように手が動く。
「今日のお夕飯、なにがいいですか?」
そうしてどれくらい経ったのだろう、ぽつりとアンジュが零した。あまりに不釣合いな言葉に、捨て鉢な返事をする。
「なんでもいい」
本心からの言葉だった。腹は減っていないし、そもそもこだわりはない。
「だめですよ」
続いて降って来たのは咎める言葉。その音は髪を撫でる手つきと同じく、ゆるりと優しい。
「好きなものをお腹いっぱい食べなきゃ、元気は出ませんよ」
子供に言い含めるような口調に、腕を退ける。部屋の照明を背にしたアンジュと再び目があった。
「……君の作ったものなら、なんでもいい」
「まあ」
柔らかくアンジュの口元が緩む。薄紫色の瞳が細まるのに合わせてリカルドの目も細くなる。
「じゃあ今日は腕によりをかけて作りますね」
「頼む」
さわり、指が髪を撫ぜる。
胸の奥はまだざわざわとささくれ立っている。感傷というものがなんなのか、追悼という感情がなんなのかはリカルドには分からない。ただあの男はもう居らず、妻の顔も知らないままに終わってしまったという事実だけが胸中にぽっかりと空洞を作っている。
この穴は、アンジュの言うとおり食事で埋まるのだろうか。彼女の作る料理は埋めてくれるのだろうか。
確証はない。だが、食わねば生きていけないのは事実だ。どれだけ人を悼んで食事が喉を通らなくとも、死んだ人間が食えるわけでもましてや生き返るわけでもない。
「……ピラフが食いたい」
脳裏に浮かんだのは刻んだ野菜と炊き上げられたピラフだった。
ぽつりと零れた言葉にアンジュは気付いたろうか。顔の上で小さく息を吸うのが聞こえたため、恐らく聞こえているはずだ。
「はい、分かりました」
返る言葉は優しく、労わりに満ちている。髪に添えられた手は変わらないテンポで動き、もう一方の手はリカルドの腹の上に乗せられている。ふたつの手、指先が触れあい、絡む。強く握れば同じだけの力で握り返される。
その強さと温かさに、改めて自分が生きていることと、彼が死んだことを思い知った。

なんかいれる
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