聖夜が明けたら

「はー……」
真っ赤になった手に息を吹きかける。何度か繰り返すが温もる気配はない、ただの気休めなのは自分が一番理解していた。
大きな聖堂ではないけれど、一人きりだと寒さが堪える。数時間前まで降誕祭を祝う信者で溢れかえって、暑いほどだったせいで余計に身に染みるようだ。
拭き終えたばかりの長椅子に腰を下ろし、ふうとひとつ息を落とした。窓から差し込む朝日はまだ薄く弱い。時々ちらちらと光るのは雪だろうかと思ったが、どうやら窓の向こうで木々が揺れているだけのようだ。
そもそもこの地方では、今の時期に雪が降ることは稀だ。本格的に寒くなるのは年が明けてから、それまでに冬越えの準備をしなくてはならない。
何を準備しようかと家の買い置きを頭の中に浮かべたとき、重たい扉が開く音がした。同時に吹き込む冷たい風が、聖堂内の空気をかき混ぜる。と同時にぎし、と木の床が鳴く。ごつ、と無骨な音もした。
ごつごつ、と靴音が真横に来て初めて顔を上げた。真っ黒なコートは薄暗い教会内に溶けるように馴染んでいる。
「おかえりなさい」
「ああ」
簡素な返事とともに、リカルドはアンジュの横に腰を下ろした。男の重さを受けた長椅子が少しだけきしむ。
「ご苦労だったな」
言葉と一緒に息が白く濁る。鼻の頭と耳がほんのりと赤い。
「冷えただろう」
「あなたこそ」
リカルドの手がアンジュの頬に触れた。するどい冷たさが伝わってきたが、ほんの一瞬だけで、あとは手のひらの傷のほうが強く感じられた。アンジュも同じようにリカルドの頬へ手をやったが、彼は少し目を細めただけだ。
「今年は、何人ですか?」
アンジュの問いにリカルドは表情を変えなかった。少しの沈黙の後、わずかに口元が笑む。
「三人だ」
二日間続く降誕祭の間、街はいつになく賑わう。
教会の信者である者はもちろん、そうでない者も降誕祭という祭りを建前にこの二日間を過ごす。
教会へ赴く人、家路を急ぐ人、酒場や宿場で夜通し飲み明かす人、どの町でもどの村でも様々な理由で様々に入り乱れる。男も女も老いも若きも、善人も悪人も皆一様に。
そんな時にこそ人は隙を見せる。いつだって浮かれた人間が一番狙いやすいのだ。
一月前に一件、二週間前に二件の依頼を受けたが、どれも降誕祭の夜を指定していた。この村から近いレグヌムとその周辺の町に限らなければ、もう三件ほどの依頼が来ていたはずだ。
アンジュが教会で人々に祈りを説き幸福を願う間、リカルドはレグヌムで三人の人を殺していた。きっと数時間もしないうちに銃殺死体が見つかるだろう。誰かは路地で、誰かはベッドの上で。
「それはそれは、お疲れ様でした」
レグヌムからこの村まではそれなりの距離がある。夜のうちにレグヌムを出たのだとしたら、ほとんど夜通し移動し続けたのだろう。薄暗くてよく見えないが、唇も青ざめているように見えた。
「止めろとは言わないんだな」
ぽつりとこぼした声は、またしても白く濁った。形になったかと思うと、ほんの数秒で跡形もなく消える。
「止めてって言っても止めないんでしょう?」
ほんの少し距離を詰め、向かい合う男の顔を覗き込む。吐息が交わるか交わらないかの間隔は、青い瞳がよく見える。リカルドからもきっとアンジュの葡萄色の瞳が見えているだろう。ともすれば、瞳に映りこむ自分自身の顔も。
「……これ以外の道を知らないからな」
「わたしもです」
アンジュが神に祈ることしか出来ないように、リカルドは戦場を駆けることしか出来ない。
そういうふうにしか出来ないし、それ以外を知らない。真っ当な恋人の真似をしても、善良な夫婦の振りをしても結局この道を選んでしまう。どれだけ取り繕っても修道女に、あるいは傭兵に戻ってしまう。身に染み付いた業は今更消えることなどない。
だが、それでいいのだと決めた。
「さ、帰りましょう」
「ああ」
神に祈るしか出来ないアンジュをリカルドは愛したし、戦場を駆ける運命のリカルドをアンジュは慈しんだ。彼女が、彼が、そうであるから恋をしたのだ。
真っ赤になった指先を、無骨な手が包む。人の幸せを願った手を、人の幸せを奪った手が握る。
「帰ったらご飯にしましょう。信者の方からウサギのパイをいただいたんですよ」
「その前に風呂だろう。体が冷えてしょうがない」
「それもそうですね」
とっておきのバスソルトを出しますね、というとリカルドは笑った。
先週買ったワインを温めて飲もうか、というとアンジュは微笑んだ。
降誕祭の夜はもうじき終わる。降誕祭後の朝、最初の朝日を敬虔な信者たちは神の祝福と呼び表した。
かくして祝福と呼ばれた日差しは、雲間を抜け惜しみなく大地を照らしていく。そしてそれは寄り添いながら神の家を後にする二人にも、優しく等しく降り注いだ。

初出:2019/12/26
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