冬の日
年々寒さが堪えるようになった。決して、決して認めたくはないのだが。
「……」
今だってそうだ、ベッドの中から出るのだって億劫で仕方がない。腕を動かしてもただただ冷えたシーツを撫でるばかりで、温かな誰かを掴むことはない。
三十を越える前までは生まれた土地柄ゆえだと思っていた。ガラムは比較的温暖な気候だったから、体が慣れていないのだろうと。
「……」
だが三十を過ぎて数年、明らかに寒さに弱くなった。冬の朝は起きるのに随分時間がかかるようになったし、雪でも降ろうものなら体の芯までも凍ったように動きが鈍くなる。
「……ああ、くそ」
舌打ちをひとつして気合をいれる。
まだ倦怠感の残る体を起こし、軽く腕を回す。関節が鳴ったが無視をした。
髪を適当に結わえていると、なあん、と足元から声。履物の横、薄茶色をした猫がリカルドを見上げていた。
「なんだ、また来たのか」
問いかけたが猫は返事をしなかった。そのかわりリカルドの足に体を擦り付け、そのままくるりと体を反転させ扉の前でもう一度鳴いた。開けろという催促だ。
手近にあった上着を手にし、戸を開ける。寝室の先、ダイニングにアンジュの姿はなかった。
窓からやわらかな日差しが降り注いでいる。ストーブが焚いてあるのもあって、部屋はほどよい温度に保たれていた。
テーブルの上には何もなかった。ストーブにポットがかけたままなのが少しだけ気にかかる、どこかへ出掛けたのだろうか。
猫がリカルドの足の間を駆け抜け、テーブルの下に滑り込んでいく。まるで自分の家のような振舞いだが、この猫はただの野良だ。餌を貰いに来るついでに上がりこむようになり、最近は家の中で寝るようになった。
「どこに行ったか知らないか」
猫に聞いて返事をするわけがない。それでも問うてしまうのは、まだ寝ぼけているからなのだろうか。
それもこれも寒さのせいだ。どうもうまくいかない。
ぬくい空気の中を動くさまは鈍重な回遊魚のよう。緩慢な動作で洗面所に入り、汲み置きの水で顔を洗う。
冷え切った水は痛かったが、寝ぼけた頭にはちょうどいい刺激になった。数度水を浴び、顔を上げると鏡に映り込んだ自身と目が合った。
鏡の中の顔にさしたる変わりはない。髪に白いものは混ざっていないし、輪郭も崩れていない。強いていうなら目元に影が増えただろうか。
ゆうべの内に五人殺した。前日分も合わせれば九人。
男が六人、女が三人。そのうち夫婦が一組。恐らく全員見つかっているだろう。身なりの良い男は川に落ちたから、まだかもしれない。
感傷に浸るわけでも、後悔をしているわけでもない。殺した彼らに憐憫などありはしない。
ただ、不条理だと思うだけだ。人殺しにも老いは来るし寒さに体が鈍る朝は巡ってくる。
そうやって人間は日々の生活を紡いでいるのだ。そしてリカルドはこれしか生きる術を知らない。
「……馬鹿らしい」
探し出したタオルで顔を拭くと、独りごちる。寒さが余程堪えたのだろう、肩から背中までがひどく重かった。
いっそ二度寝でもしようか。アンジュがいつ戻るのかは分からないが、無為に待つよりはましだろう。
そうでなくとも戻ったのは夜明け前だ、多少の寝坊は赦されるはずだ。そんな事を考えながら再びダイニングに戻ると、窓際に誰かが立っていた。
「リカルドさん、おはようございます」
振り返って微笑んだのはアンジュだった。外から帰ったのだろう、コートをハンガーにかけている。日差しに青い髪が照らされ、存在が溶けて見えた。
「どこに行ってたんだ」
発してから、あまりに硬い声色だったことに驚いた。動揺が顔に出るよりも先に、アンジュがやわく笑む。
「オースティンさんのところで卵を分けてもらいに行ってました。あと、サマンサさんとアインツさんのところにも」
立て続けに挙げられた名には聞き覚えがあった。オースティンは坂の下にある大家族の家だ。サマンサは商店の主人だがアインツは誰だろうか、同じ村の住人だとは分かるが顔は浮かんでこなかった。
アンジュもリカルドの様子を察したのだろう、少し眉尻を下げた。
「なにかあたたかい物でも淹れましょうか」
紅茶でいいですか? と言いながらキッチンへ向かう背を引き留める。肩を掴み振り向かせる勢いのまま、腕の中に抱きとめた。
「リカルドさん、ちょっと」
小さな抗議。わずかに笑みを含んでいるから、本気で怒っている訳ではないだろう。
肩口に顔を擦り付ける。陽にあたった髪には少しだけ熱が戻っていた。しかし体はまだ冷えたままだった。自分の体温が失われていくのも構わず、抱きしめる力をほんの少し強める。
「……寒かっただろう」
問いは自分への確認でもあった。
「もう平気ですよ。こうしてるとあったかいです」
背に回された手は確かにあたたかだ。生きている証の音が衣服と皮膚の向こうから微かに伝わる。
「大丈夫ですよ」
なにが、どこが、あるいは誰が。それは問うだけ野暮だということは分かっていた。
「大丈夫、平気です」
ただ淡々と繰り返される言葉は、核心に手を翳すだけの曖昧な答え。だが今はそれがすべてだという気がした。
リカルドは無言で抱きしめる力を強める。腕の中でふ、と吐息とも笑いとも取れる声が漏れた。
「もう、ヒンメルが見てますよ」
「なに?」
予想外の名に思わず体を離す。途端に冷たい空気が互いの間に潜り込んだ。
「この子の名前です。素敵でしょう?」
アンジュの視線を受け、ヒンメルと呼ばれた猫は、にゃあん、と鳴いた。今日一番の愛嬌ある声は、自分の名を自覚している証拠だ。
「……別の名前にしないか」
彼女にとって思い入れがある名なのは十分理解している。だが、その先にちらつく金色が気になった。
「じゃあタナトスにします?」
「それはもっと駄目だ」
「もう、駄目ばっかりじゃないですか」
わざとらしく唇を尖らせる仕草は小憎たらしくも可愛らしい。
「じゃあお茶でも飲みながら一緒に決めましょう」
言うなり、アンジュは軽やかな足取りでキッチンへ向かっていった。その後ろ姿を見ながらリカルドは苦く笑う。淡いグレーのブラウスに包まれた背は出会った時と同じく、小さく細い。
名前の候補をいくつか浮かべながら、アンジュの隣へ並ぶ。いつのまにか背中にあった重みと冷えはすっかりと消えていた。