温く首を絞めるもの
信仰の対象となるものは決して清くいられる訳ではない。
いつの間にかアンジュの体に跨るように圧し掛かっていたものが、ゆっくりと手を伸ばす。黒く濡れた手は細い首へ手をかけ、愛しむように何度も撫でやる。
そのうち触るだけでは耐えられなくなったのだろう、濡れた舌がべろりと頬を撫でた。閉じた瞼の数センチ先で、ぜいぜいと荒い息遣いが聞こえる。
生暖かい息は、上に乗るそれが興奮状態にあることを余すところなくアンジュに伝えていた。そしてそれが頂点に達したのだろう、ねっとりと粘った舌で影がせせら笑うように呟いた。
「この悪魔が」
ばっと飛び起きると、そこ広がっていたのは数日前まで過ごしていた部屋の天井ではなく、濃紺の夜空だった。ルカたちは焚き火を真ん中にそれぞれ散らばって横になっている。
アンジュは薄い毛布を抱き寄せ、喉元、頬、胸の異変を手で確かめる。何度も撫で、指先に何の異変も伝わってこない事を確認すると、小さく息を吐いた。
それでも心臓の高鳴りは早く、落ち着かせようと何度か深呼吸をするが、それに合わせて胃の奥からせりあがるものに気づく。護身用にナイフを持つと、茂みの奥に駆け込んだ。
ほぼ喉まで出てきているものを必死に堪えながら、川べりへ走る。昼間場所は確認してあったので、たどり着くのに手間取りはしなかった。
さらさらと流れる水音を耳にしながら、アンジュはその場にへたり込んだ。
そしてもう限界だったのだろう、胃の中のものを全て吐き出す。寝る前に食べたものが消化されつつあったのか、周囲に胃液の据えた臭いが立ち込める。何度か咳き込むと、完全に胃の中は空っぽになり、乾いた咳だけが出る。
濁った味が残る口を川の水ですすぐと、少しだけ意識が冴えてきたように思えてきた。そして自分がケープを脱いでいた事を思い出し、それに気づくと同時に小さく震えた。
季節はまだ夏になる前、そうでなくても森の中での夜は冷えるというのに、このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。早く戻って火に当たろう、そう決める。
戻したものを脇に生えた雑草で隠すと、もう一度手と口を川水ですすぐ。
急いで出てきてしまったから誰か起こしてしまったかもしれない。傭兵であるリカルドは人の気配に聡いほうであるし、ルカは眠りが浅いのか時々目を覚ますことがあった。もしも戻ったときに誰かが起きていたなら、笑って返そうとアンジュは決める。
「ごめんなさい、ちょっと喉が渇いたから水を飲みに行ってたの」
そう言えばルカたちはきっと理解してくれる。
リカルドはどうだろうか、何かあってもきっと気づかない振りをしてくれるのだろう。彼は依頼人であるアンジュを守る事を第一に考える人物だったが、決して一定の位置から踏み込もうとはしなかった。前世の縁で繋がりあう自分たちの中で、リカルドのその態度をアンジュは好ましく思っていた。
決して馴れ合うことが嫌いなわけではない。たった一人の家族とも離れて過ごしているアンジュには、ルカたちは歳の離れた弟たちが出来たような感じですらあった。
暖かく心地よく、そして守ってあげたい存在。迷える人に道を指し示すのを職とするアンジュには、迷ったり喧嘩したりと忙しい彼らが大切に思えて仕方なかった。
だからこそ、心配をさせてはいけない。何よりもこんな自分の汚れた過去のせいで心に影を落とすような真似をしてはいけない。
「セレーナ」
そんなふうにアンジュを呼ぶ人間は一人しかいない。そしてその声は酷く低く、アンジュの名前を呼ぶ。
振り向いた先、声の主はいつもどおりの格好でそこにいた。
「……リカルドさん」
「急に飛び起きたから何事かと思ったんだが、大丈夫か」
何に対しての気遣いなのか、聞かずとも分かる。
だからこそアンジュは頭の中で繰り返した答えで持って返した。喉が渇いたから水を飲みに来たんです、心配させてごめんなさい。
声も上ずらず、言葉に詰まることもなく自分でも驚くほどにすらすらと言葉は落ちた。
上手く言えたと思う反面、恐らくリカルドは騙されてくれないだろうとも思った。吐き出したものの臭いが鼻についているかもしれない、というのと同時に彼自身に嘘は通用しないのではないかという思いがあったからだ。
事実、リカルドはアンジュの頭ひとつ上から彼女を見下ろしながらも何も言おうともしない。それは声をかけることを気遣っている風でもあり、視線だけで何があったのかと問いただしているようでもあった。
「ごめんなさい、戻りましょう?」
川の畔だというのに空気が酷くよどんでいる気がする。早くキャンプ地へ戻ろうと歩を進めるアンジュの肩に、何か重たいものが乗った。それは柔らかく暖かく、人の手の感触を持ち、アンジュを引き止める。そして同時に背筋を駆け上るいつかの憎悪。さっき見た夢の中で彼女の体を這い回ったものとは違う、けれど、アンジュの感情を揺さぶるには充分な重さ。
「やめて!」
乾いた音が響く。
重い手を振り払った手は勢いあまり、リカルドの頬を撥ね付けた。彼の頬を打った指が熱を持ち出すのに反して、頭は一気に冷めていく。
打たれた頬を指で撫でる彼に謝罪を口にしようとするが、何故か上手く喋れないことに気づいた。喉が渇いているわけでもあるまいに、干からびて声が出ない。
謝らないといけない、早く、早く、早く。アンジュの頭の中でアンジュ自身が叫ぶ。夢の男とリカルドは違う、あの人たちとリカルドは同じではない、リカルドはアンジュを傷つけない、どんなことがあっても守ると誓ってくれた。あの腕はアンジュを守るものであり、傷つけるものではない。
「すまない」
先に声を出したのはリカルドだった。低く心地よい声色はアンジュの耳を掠め、そして通り過ぎていく。再び肩に重さがかかる。それはさっきの手よりも軽く、温かみもない。
「風邪をひく。早く戻れ」
ブラウスだけの肩に、黒いコートがかけられる。布地にはほんの僅かな温もりと、火薬の匂いが染み付いていた。コートの袷を握り締めると、また地面にくず折れる。胃の中は空っぽなのに、咳き込むだけは出来る。何度もえづき、ぜいぜいと呼吸を繰り返す。
今、自分は何をしたのか?アンジュは自分自身に問いかける。目の前に立っていたのはリカルドだった。それは間違いないし、間違えようがない。すらりとした長身、黒いコート、黒い髪、白い肌、額の傷、どれを取っても見間違うはずがない。朧にしか見ていない顔だったが、彼と見間違うはずがない。リカルドはリカルドで、あの男ではないのに。
零れる涙をブラウスの袖で拭う。そうしている間にもコートから熱は失われていった。