最愛
自室の扉を開けると、花の匂いが満ちていた。
一本や二本ではきかない深くて強い匂い。出どころはすぐに分かった、机の上だ。
読みかけの本の横、ふんわりと半円を描くような形でブーケが置かれている。白地に銀の刺し模様が入った包装紙とセロファンで包まれ、持ち手には幅広のリボンが巻かれている。白を基調にアクセントとして細い青が差し込まれていた。
誰が置いたかなんて考えるまでもない。だってこの部屋の鍵を持っているのはアンジュ以外には一人しかいないのだ。
くるり踵を返して部屋を後にした。まず広間を覗き、続いて図書室と食堂を覗いたが姿はない。背高の何人かとすれ違い、談話室へ滑り込む。
昼食時間を過ぎた談話室に人はそう多くない。視線を数度巡らせるだけで、目的の人は見つかった。
「リカルドさん」
名前を呼ぶ。黒い背がゆっくりと動き、こちらを見る。ふと肩の向こう側に誰かの髪が見えたような気がした。
「どうした」
身体半分こちらに向けると、ちらりとエステルの顔が現れた。淡い桃色の髪が少しだけ揺れたかと思うと、視線がかちあう。
反射的に頭を下げると、ふわりとやわらかな笑顔が返ってくる。リカルドになにか告げると、そのまま立ち去ってしまった。
「ごめんなさい、お話し中でしたか」
「いや、終わったところだ」
リカルドがエステルと話しているのは珍しい。穏やかで誰に対しても人当たりの良い彼女だが、この組み合わせはあまり見ない方だ。
談話室にはエステルをはじめとして数名が滞在していた。このまま会話を始めるのが気になり、ついとコートの袖を引いた。
特に抵抗もなく、促すままに廊下へ抜け出る。窓から差し込む日差しは暖かく、季節が移り替わりはじめたことを示していた。
「お花、ありがとうございました」
廊下の奥まった場所に移動して、ようやく向き合う。アンジュの言葉に対してリカルドはああ、とだけ返事をした。
見慣れた無感情な表情。そこに特段笑みや達成感のようなものは浮かんでいない。
バレンタインの返礼だということはすぐに分かった。数日前なにか欲しいものはあるか、とリカルドに聞かれていたのだ。その時アンジュは薄く眠り始めていたため、ほとんど夢の中だったように記憶している。
――あなたの選んだものならなんでも嬉しいです。
そんな曖昧な答えを返したはずだ。隣にいたリカルドは何と言っただろうか。髪を撫でられた感触を最後にして、その夜のアンジュの記憶は途切れている。
「気に入ってもらえたならよかった」
薄い唇がやわらかく笑む。普段見せるような少し皮肉げな笑みではなく、ただ安堵したようなそんな笑み。
「でも、あんなに沢山いいんですか?」
そう言って、少しだけ首を傾げた。口元は笑んだままだが、少しだけ眉が寄ったように見える。
「あれでも減らした方だ」
「それで、十一本?」
バラの花は十一本あった。赤を多めに白を数本混ぜたもので、隙間を埋めるような小花はなにもない。いっそ潔いと言っていいほどにシンプルな花束だった。
「君に贈るなら最低でもあれくらいはいるだろう」
さらりと流れるような口ぶり。本来なら何本贈るつもりだったのだろうか。十八本か、それとも九十九本、あるいは百本か。
「でも、あんなに飾りきれないわ」
個々人に与えられている自室はそう広くはない。花瓶を置く場所がないわけではないが、たっぷりと花開いたバラの花束は少々手に余ってしまう。
リカルドは口元に手をやると、ふむ、と短く息を吐いた。そしてわずかに目を細め、アンジュを見やる。
「なら君の好きにしてくれていい」
「誰かにあげてしまうのも?」
アンジュの問いに、リカルドは再び考えるような仕草を見せた後、
「それも好きにしてくれ」
と言った。その言葉に、自然と口元が綻ぶ。
「じゃあ、後で貰ってください」
ぱちり、今度こそ目に見えて驚いた。切れ長の目が見開かれた後、楽しそうに細められる。まるでアンジュがこの方法を選ぶのを予測していたと言わんばかりの笑み。
「何本だ?」
「そうね、じゃあ五本貰ってくださる?」
瞬きをもうひとつ。瞳の青がほんの少しだけちらりと光った。
「……三本じゃなくていいのか?」
問い返す口元は変わらず楽し気に笑んでいる。
まったくどこで仕入れた知識なのだろうと思い、先程立ち去った少女の事が浮かんだ。博学で優しいあの子なら彼の問いにいくらでも答えてくれるだろう。
「もう、しょうがない人ね」
三本のバラに込められた意味なんて、今更口にするまでもないのに。それでもこの人は問いかけてくる。
これを心配性と呼ぶべきか、児戯と呼ぶべきか、あるいは自惚れと呼ぶべきか。いずれにせよ愛らしくて仕方がない。
「それじゃ、後で貰いに来てくださいね」
「ああ」
返事をする間にリカルドの手がアンジュの手を取った。指に革手袋の硬い感触を感じながら、またふいと上を向く。
「なら今夜貰いに行く」
二人にしか聞こえない小さな声が頭上から降る。
青い瞳と甘い声色に触れた場所が、ちりりと熱を持っていくのが自分でもわかった。耳に頬に、それから胸の奥の方がじんと熱い。
ああまったく、自惚れているのはどちらなのだろう。