この善き日に
「もうすぐバレンタインなので、チョコレートを作ります」
と、妙に流暢な発音でもって告げたアンジュの頬が緩んでいたことをリカルドは見逃さなかった。
女性が思いを伝えたい男性にチョコレートを贈る、ただそれだけの行事だ。国が定めた記念日ではないが、すっかり人々の生活に根付いている。この季節になると、男女問わずどこか浮き足立ち始めるのだ。
当然それはアンジュたちの周囲でも変わらない。
これをきっかけに意中の相手と進展したいと願う少女も数多いだろう。参加者を募ってチョコレート作りに励むのはいいが、揃いの衣装まで用意する必要があるのか、という疑問はあった。些細なお祭りでも楽しむのなら全力で楽しみたいということなのだろう。
もっとも、無類の甘いもの好きである彼女にとって恋人たちの祭典はただの理由付けだということも、リカルドは予測していた。人目をはばからず誰に気兼ねするでもなく、甘いものを頬張れる日に彼女が乗らないわけがないのだ。
「いつもありがとうございます」
「この間はありがとう」
「これよかったらどうぞ」
件の揃いの衣装に身を包んだ少女たちの手には、大きな籠があった。丁寧に一言添え、手渡していくのは手作りの菓子だろうか。
「リカルドさん、はいどうぞ」
慣れた声に視線をやれば、アンジュの顔が目に入った。まず目に入ったのは頭の上のヘッドドレス、続いてココアをまぶしたような色合いのブラウスだった。
普段纏っている法衣とは作りも形も違う服は、エプロンドレスというのだろうか。髪型はいつもと同じだが、今日はなんだか違って見える。
「貰っていいのか」
「もちろんです。いつもお世話になってますから」
明るい声に、差し出された包みを改める。マフィンとマドレーヌ、ブラウニーがそれぞれひとつづつ透明なセロファンに包まれている。少し斜めになっているリボンはピンクと白。いかにも女性らしいセレクトだ。
「みんなで作ったんですよ。どっちも美味しいので召し上がってくださいね」
いやに自信に満ちた声に、思わず口元が緩む。その言葉に嘘はないのだろう。
アンジュは美味いものに妥協することはないし、それが甘いものなら尚更。味見しているだろうし、なんなら試食と証していくつか平らげているはずだ。
「じゃあ他の皆さんにも配ってきますね」
くるりと踵を返せば、スカートの裾がリカルドの膝をわずかに掠めた。小さくなる背は、ちょうど通りがかったユージーンに声をかける。そして先ほどリカルドにしたのと同じように、籠から包みを取り出し手渡す。なにやら会話を交わしているが、内容までは聞こえなかった。
ちら、と手の中の包みに視線を落とす。続いてユージーンに手渡される包みへ。
セロファンの向こうに並んだ菓子は何度見てもみっつ。マフィン、マドレーヌ、ブラウニー各一個。角度を変えても、裏返しても数は変わらない。
「どうかしましたか?」
背後からの声に振り向くと、シャーリィが立っていた。アンジュと同じココア色のブラウスに身を包み、手に提げた籠には菓子が詰められている。ヘッドドレスについているのは貝殻かと思ったが、よく見ればチョココロネだった。
「もしかして、甘い物お嫌いでしたか?」
気遣わしげに見上げてくる視線に、少しだけ戸惑う。
「いや、大丈夫だ。頂いていく」
包みを小さく掲げて見せると、シャーリィの表情が和らいだ。一体なにを期待しているのだろうか。
「リカルドさん、はいどうぞ」
差し出された四角い箱。そして差し出して来た人の顔を交互に見る。ココアをまぶしたようなブラウスに、空と同じ色をした巻き髪。
昼間の再現かと思ったが、差し出されたものとシチュエーションだけが違った。オレンジ色の箱にモスグリーンのリボン、夜半過ぎの二人だけの部屋。
「なんだこれは」
「バレンタインのチョコレートです」
さらりとした言葉に一瞬だけ理解が遅れた。
「……昼間貰ったはずだが」
「あれはあれ、これはこれですよ」
そう言いながら、リカルドの横に腰を下ろす。整備途中の銃を抱えたまま腰の位置をずらせば、ソファがたわんで跳ねた。
「リカルドさん、毎日銃の手入れをするでしょう? 手が汚れてても食べやすいものがいいかと思って」
説明をしながら、アンジュの指はラッピングを紐解いていく。可憐な花を模していたリボンはただの紐に戻り、テーブルに置かれた。
ガナッシュを食べやすいように一口サイズにしました。ビターチョコを使っているので甘さは控えめですよ、と続けて笑う。
「はい、どうぞ」
ついと鼻先に甘い匂いが訪れる。ピックに刺して差し出されたのはチョコレート……なのだろうか。
「待て、今手が」
「もう、手が汚れていても食べやすいようにしたって言ったじゃないですか」
だから、と無言の催促。この至近距離で避けようもない。口を開けて目の前の甘味を食んだ。
「いかがですか?」
「……美味い」
ビターチョコを使っているというのは本当なのだろう、甘さよりもカカオのほろ苦さが先に来る。続いてアルコールの風味、甘さは舌に残るが不快なほどではない。美味いという賛辞は心からのものだった。
「昼間貰ったものも美味かった」
「マドレーヌはソフィが焼いたんですよ」
誰がなにを担当したのか、たくさん作るのは大変だけど楽しい、材料が足りなくなって焦った、とくるくる表情を変えながらアンジュは語る。
「君はなんの担当だったんだ」
「え、わたしですか」
ぴくりと薄い肩が弾む。予想通りの反応に知らず口元が緩んだ。
「まさか試食と称してつまみ食いにばかり勤しんでいたわけじゃないだろう」
「確かに試食はしましたけど、食べてばっかりじゃありませんっ」
食べたことは否定しないのか、とは思ったが口には出さない。追うだけ野暮というものだ。
「わたしはブラウニー担当です。これを作るから比較的簡単なものに回してもらって」
「なるほど」
昼間貰ったブラウニーも美味かったが、リカルドには少々甘すぎた。少なくとも先程渡されたガナッシュのほうがずっと好みだ。それもそうだろう、目の前のこれは自分のためだけに作られた甘さ。
「今年は貰えないかと思った」
ぽつりと出た言葉に、アンジュが目を瞬かせる。それから口元を綻ばせ、
「まあ、自惚れやさん」
と続けて笑った。そう言われてしまえば反論のしようもない。これが自惚れで自意識過剰でないのならばなんだというのか。
「わたしが貴方に渡さないなんて、そんなことあると思いますか?」
それも誰かが誰かに感謝を告げる日に、愛を告げるこの善き日に。馬鹿にするでも怒るでもなく、ただ訥々と流れる声にリカルドも笑うしかない。浮かんだのは自嘲、それから。
「どうしたんです?」
おもむろに席を立ったリカルドの背をアンジュの視線が追う。
「手を洗ってくる」
振り返らぬまま手を振ってみせる。手のひらは機械油でべたりと汚れていた。
「このままだと汚してしまうからな」
なにを、どこを、誰を。最後まで言わずとも伝わるだろう。互いの関係を攫えば問うまでもない。
まあ、と感嘆の声。それから少しはにかんだような笑い声に、リカルドの口元は再び緩む。甘く溢れるほどの感謝をどうやって伝えてやろう。ゆるりと思案しながら、洗面台へと歩を進めた。