幸せが逃げていく気がした

幸せが逃げていく気がした。
息をした分だけ、魔力を使った分だけ、血を流した分だけどんどん遠ざかっていく。血はほとんど致死量、体力と魔力に至ってはからっぽの一歩手前だ。
壁に寄りかかって息を整える。空は馬鹿みたいに青く透き通っている。もう数時間もしないうちに終わってしまう世界とは思えない清々しさだ。
「勿体ないなぁ」
「まったくだ」
アンジュと同じく壁に寄りかかっていたリカルドが呟く。出血量が多いのだろう、顔色はいつもよりずっと悪い。
煤けた視界には、少年少女たちが転がっている。背や腹は薄く上下しているから、死んではいないだろうが時間の問題だ。
そしてその奥には異形の魔物。
あれがルカと同じ十五かそこらの少女が願った姿なのだと思うと、恐ろしさと同時に哀れさも浮かぶ。夏も近い陽の元、晒すのは怨嗟の塊なのだ。
「したいこと、たくさんあったのに」
「例えば」
「もう一回食べたいものがあったんです」
ふは、とリカルドが笑う。窮地に似合わない気の抜けた声と一緒に、小さく血を吐いた。
分厚いポークステーキはどこで食べたものだっただろう。テノスのシチューと越冬ワインも最高に美味だったし、アシハラのカイセキというフルコースも素晴らしかった。ガルポスで食べたフルーツの盛り合わせは暑さも相まって涙が出るほど美味しかった。
「あともう一回ガラムの温泉に浸かって、チーズとワインを食べたかったです。そこにパンとオリーブがあればもっと素敵。あと、それから」
言うべきか、言わざるべきか。ほんの少しの逡巡のあと「あなたとの子供が欲しかったです」と続けた。
「……馬鹿なことを」
「いまわの際で冗談なんて言いませんよ」
だって今から死ぬかもしれないのに。つまらない嘘なんて言っても誰も幸せになんてならない。どうせ遅かれ早かれ死ぬなら、しあわせなままに死にたいに決まっている。隣にいる人と家庭を築く夢を……あなたに似た黒髪の女の子を抱く夢を……見たって罰は当たらない。
「なら、本当にするしかあるまいよ」
リカルドがゆるりと立ち上がる。不規則な動きにあわせて黒髪がゆら、と左右に揺れる。左足はほとんど引きずるようにして、転がっているルカの腕を持ち上げた。
「おい起きろ。いつまで寝てる」
同じく隣で臥せっていたスパーダの腹をブーツの爪先でつついて揺らす。痛ってぇなクソ、と小さな呻き声が返ってきたのを横目で確認すると、意識を取り戻したルカに肩を貸してやった。
さっきまで虫の息だったというのに、なんて現金な人なのだろう。わたしも、あなたも!
「もうリカルドさんったら」
いつものように小言を口にしながら腰を上げる。
いつものようにイリアを揺り起こし、エルマーナの頬に触れる。みんな傷だらけだけれど、息はある。まだ生きている。僥倖だ。
「さあみんな、いきましょう」
いつものように声をかけ、顔をあげる。空は抜けるように青い。

もうすぐ世界最期の夏が始まる。

初出:2018年秋ごろ
お題:リカアンの小話を考えている萩乃さんには「幸せが逃げて行く気がした」で始まり、「夏が始まる」で終わる物語を書いて欲しいです。
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