Love me little,Love me long.
親愛なるリカルド・ソルダート様
お元気ですか。こちらはもうすぐ雪解けの時期です。豊穣の女神に祈りを捧げるお祭りも近く、テノスの街は賑わっています。
アルベールさんのおかげでナーオスの聖堂も無事再建されました。春が来たらナーオスへ戻ろうと思います。あの街の人がわたしを受け入れてくれるかは不安ですが。
こちらへ来て積極的に自炊をするようになったおかげか、料理の腕も上がりました。
ナーオスにおいでの際は、ハルトマンさん程ではありませんが、わたしの手料理を振舞わせてください。そういえばリカルドさんはお魚とお肉、どちらがお好きだったでしょうか。また、教えてくださいね。
そう言えば先日エルが訪ねてきた際、色々教えてくれたのでご報告しますね。ルカ君が学年のテストで一位を取ったそうです。あんまり嬉しくて、泣いちゃったみたい。
スパーダ君が海軍に志願したのはご存じですよね? 入隊してすぐ仲のいいお友達が出来たそうです。イリアは一生懸命勉強に励んでいるそうです。でも難しい本はまだ読めないみたい。
最後にエルです、なんと有名ギルドにスカウトされたそうです。一番の出世株かもしれないと、今から噂になってるみたい。
ガラムにお帰りになるのは少ないとお聞きしました。今もどこかの戦場にいらっしゃるのでしょうか。テノスでも傭兵の方を見かけるたび、貴方の姿を探してしまいます。
貴方は何事にも真面目な方だから、無理をしていないか心配です。
どうか、お体には気をつけてください。それでは、また。
アンジュがどれだけ長い手紙を書いても、思い人の返事はいつも簡単だ。便箋三枚分に書き連ねた手紙の返信は、たった一枚の便箋に収まってしまう。
アンジュ・セレーナ嬢
返事が遅れてすまない。こちらは大事ない。収穫祭の時、ナーオスへ向かう。
君も体に気をつけるように。
リカルド・ソルダート
仕事熱心、真面目と嘯くだけあって彼の字は意外にしっかりしていた。
短い文ではあったが、筆運びに迷ったような様子はなく、思ったままを書いたのだろうと推測できた。彼の人の瞳を思い出させるロイヤルブルーのインクで綴られた文字は少し角ばっていて、それがまた彼らしい。
リカルドから短い手紙が届いた後、アンジュはすぐに手紙を出した。もちろんナーオスでの新居の住所を教えるためだ。
だがその手紙を出した後、リカルドからの返事は一通もなかった。
彼は元々一所に留まらない傭兵である。一番確実であるガラムの傭兵団に送ったが、返事はない。そうなると、彼がガラム以外で立ち寄りそうなグリゴリの里に手紙を出すしかない。
しかしあんな孤島に手紙を届ける定期便などあるわけがなく、仕方なくアンジュはエルマーナに使いを頼んだ。
そしてグリゴリの里に手紙を届けたエルマーナが聞いたところは、リカルドは数日前に訪れたがその際に暫くこの里にも戻らなくなる、という話だった。更に戻っても春が終わるころ、と言われる始末。
おっちゃんフラフラしすぎやろ、とは結果報告に来たエルマーナの弁であるが、アンジュも概ね同意だ。
住所を書いたあの手紙を出して二ヵ月余り。テノスでの豊穣の祭りを見届けてからアンジュはナーオスに戻ったが、それでもリカルドからの手紙は届かなかった。
念のためにテノスのアルベールにも尋ねてみたが、アンジュの住まいだった住所にリカルドからの手紙は届いていないと言う答えが返るだけだった。
そうしている間にもナーオスでは新たな聖堂の除幕式が行われたが、アンジュが再び聖職者として教会に勤めることはなかった。
街の人々にはまだアンジュに対する猜疑心があるのだ、と引継ぎをした神父は言った。覚悟していたこととはいえ、少しだけ心が痛んだ。天上と地上は統一されても人の心までは変わらないし、アンジュの起こした過去も、人々の恐れる心も変わらないのだ。
仕方なく教会のつてを頼り、小さな街に落ち着いた。
ナーオスのように立派な聖堂はなく、けれど穏やかで優しい人の多い街だった。着いたその日のうちに住所を書いた手紙を送ったが、やはり返事はなかった。
日々の生活に追われているうちにひと月またひと月と経ち、あっという間に約束の収穫祭の時期になった。アンジュという新しい修道女が派遣されて間もないということもあり、普段は穏やかなこの街は大いに盛り上がった。
人々の宴は日が傾いても続き、夜が明けるまで続く。そして夜が明けるとともに、再び今までどおりの清貧でゆったりとした生活へと戻る。その雰囲気はどこかナーオスに通ずるものがあり、それがアンジュを安心させた。
小さな教会を中心に出店が立ち並び、小規模ながら見世物のステージも設けられる。出席を余儀なくされたいくつかの宴に顔を出すと、アンジュは誘いを全て断って早々に家に戻った。
「大事な知人が来るんです」
そう断っても街の人々は笑顔で送り出してくれた。
それだけでなく、来客用の料理のために食材を用意してくれる。新鮮な野菜が届いたかと思うと、立派な魚も到着した。
燻したてのベーコンやハムは肉屋の女店主からで、野花で出来たブーケは教会向かいに住む少女からだった。街から少し離れた場所に設けた新居は、あっという間にたくさんの食材や花で溢れかえった。並ぶ贈り物たちを前に、ほんの少しだけ涙腺が緩む。
テーブルに並んだ食材を前に、小さく腕まくりをする。日はまだ高い位置にあるが、時間は足りないかもしれない。
大量の野菜を刻み、次々に鍋やらフライパンやらに放り込む。頭の中でメニューは出来上がっているが、流石に一人で全部支度をするのは骨が折れる。
誰か呼べばよかっただろうか、とも思ったが、今日ばかりはひとりでいなければいけないような気がしていたのだ。
時間が経つにつれ完成していく料理を目の前に、アンジュは不思議と心安らかだった。彼が来ないという可能性が全くないわけではないのに、だ。
鍋いっぱいに出来たシチューも、グリルに入る準備を待つ魚も、付け合せに作ったラタトゥユも、焼き立てを買ったバケットも、出番を待つボトルワインも、明日の朝食用の果物も、更に言うならテーブルの上に飾られた花も、ともすれば全てが無駄になるかもしれない。
あの黒いコートを着た彼が、ここを訪れる保障はどこにもない。あるとしたら収穫祭の日に行く、と書かれた例の手紙だけで、それももう何ヶ月前に交わした物なのか。
そうこうしているうちにすっかり日は落ちていた。
ランプに明かりを入れると、部屋が明るくなる。全てのランプに灯が点ったのを確認し、エプロンを畳もうと手をかけると、家のドアがノックされた。いちもにもなく扉を開けると、外の闇に溶けかけた漆黒のコートが視界に映る。
「確認もせずに扉を開けないほうがいい」
第一声はアンジュへの苦言だった。片方の眉を上げ、少し呆れたような彼独特の笑み。間違いなく、リカルドだった。
「よく住所が分かりましたね」
「情報収集はお手の物だ。抜かりはない」
その口振りからやはり手紙は届かなかったのだと推測する。
コートを受け取ると、はらりと小さな花びらが舞い落ちる。ステージで花吹雪でも撒かれたのだろうか、黒いコートに白い造花の花弁は鮮やかに映え、振るい落とされると不思議な軌道を描いて舞い落ちた。
「そう言えば、ずっと言い忘れていたんだが」
手持ちの荷物をひとところに片付けながらリカルドが言う。その声を背中で聞きながら、コートをハンガーにかける。
「肉も魚もどちらも好きだ」
「ええ、そう言うと思ってました」
踵を返してキッチンに向かう。
テノスで学んだ田舎シチューは温めなおすだけだったし、香草をたっぷりまぶした魚のグリルもあと少しで焼き上がる。付け合わせのラタトゥユは鮮やかな彩りでテーブルに並んでおり、さらに香ばしそうなバケットの横にはボトルワインとグラスがふたつ。リカルドはワインの銘柄を確かめると、小さく笑った。ずっと前にガラムで話していたものだと気づいたのだろう。
「しかし量が多いな。俺が来なかったらどうする気だったんだ」
「あら、リカルドさんともあろう方が約束を破るんですか?」
絶対今日来るって分かってました。
鍋を掻き混ぜながら言うと、背後に人の気配がした。頭一つ分高いそれから感じるのは安心だけ、不安など何もない。
「ずっと待っていたんですよ」
少しだけ拗ねた声で振り返る。そうすると今度は困った顔で、アンジュを見下ろしている。
「すまない」
言葉と同時に抱き寄せられる。力強い腕に身を任せると、少しだけ強く抱きしめられ、ほうと息が漏れた。
「不安にさせたか」
落ちる声は、真摯だった。その響きから、本当にアンジュを思っているのだと伝わってきて、それだけで嬉しくなる。
「……少しも不安じゃなかった、って言ったら嘘になります」
一片の不安もなかったわけではない。硝煙の中倒れる彼を夢見たことは数え切れない。
「でも」
火薬の匂いを纏ったシャツに頬を摺り寄せ、深く息を吸う。決して好ましい匂いではないのに、不思議と彼に似合う。一緒に旅をしていた時から、今でもずっと思っている事だ。
「リカルドさんは、絶対約束を守ってくれるって信じていたから」
硝煙の中を抜け、いくつもの地を越え、自分の元へ戻る。傲慢と笑われても仕方ない、揺ぎ無い、自信。
首筋に手を回すと、引き換えのように腰を抱き寄せられる。そのまま爪先立ちで顔を近づけ、強く抱きついた。
「おかえりなさい、リカルドさん」
「ただいま、セレーナ」
吐息が混じる距離で囁く言葉は、蕩けそうに甘い。青い目に優しく見つめられ、それだけで胸が詰まって何も言えなくなる。
話したいことはそれこそたくさんあったのに、少しも形になってくれない。それを察したのだろう、リカルドもそのまま言葉を続けることはなかった。