一日だけの呪文

この世界に来て新たな知識を得てばかりだ。
鏡映点、オーバレイ、エンコード、アニマ。異世界独自の用語たち。
クリスマス、バレンタイン、ホワイトデー、学園祭、ジューンブライド、イースター。元居た世界と似たものもあれば、まるで聞き覚えのないものもある催し物の名。
どちらも物珍しさとほんの少しの奇抜さをもって、徐々に体に染み込んでいった。
「トリック・オア・トリート!」
と言う不思議な響き。それの意味するところが『お菓子か悪戯か』と知ってまた驚いた。それを合言葉に仮装をした子供たち……中には大人もいるのだが……がお菓子を貰いに練り歩くハロウィンというイベントも、この世界に来て初めて知ったものだ。
先程も可愛らしい仮装をしたリアラにお菓子を渡したところだった。すぐ隣にシーツを被っただけのような塊があったが、あれは誰だったのだろう。彼女の隣にいるのならカイルだが、あるいは別の誰かだったかもしれない。そんなことを考えながら菓子が入った籠に手を伸ばした時だった。
「しかし不参加とは意外だったな」
指先が包みに触れるかどうかのタイミング。ローテーブルを差し挟んだ先、書類に目を通していたリカルドが言った。目線は上向くことはなく、ただ手元へと注がれている。
「お前にはうってつけの祭りだろう」
わずかに笑みを含んだ物言い。言わんとしていることは十二分に伝わるが、あえて触れることはしなかった。
「悪戯なんてしませんよ。私はお菓子を配る側です」
ハロウィンが持つ意味も、子供だけの祭りではないこともこの世界に来て学んだ。イベントの進行役として何名か成人も参加しており、それ以外にも数名お祭り事が好きな大人も顔を出しているだろう。それに今回は最近具現化されたアルフェンとシオンという二人もいる。
引率役の大人は数名にとどめ、他のメンバーはお菓子を配る側に回ろうと言い出したのはフィリアだった。同じ聖職に身を置くものとしてアンジュもそれに賛同し、今こうして役を担っている。 もちろん菓子を貰うという立場も魅力的だったが、それよりも奉仕側に回る方が性に合っていた。
「そういうあなたは参加しないんですか? 死神さん」
お化けの仮装の中には黒いマントを被った死神の恰好をした子もいる。ならば前世とはいえ『死神』そのものであった彼は、この祭り事とにはうってつけのはずだ。対するリカルドは足を組み替え、椅子に背を預けた。目は変わらず書類に落ちている。
「あいにくこういった催しに興味はない」
前世の名だけで引きずり出されては堪らない、ということなのだろう。
「あら残念。ぴったりだと思ったのに」
返す言葉は少しだけ皮肉っぽく響いた。嫌味だったろうかと不安が過ったが、対する彼は顔色を変えないまま。
「元依頼人を放っておくわけにはいかんからな」
お決まりの台詞を口にし、また視線を書類に戻す。細かい文字が並んだ書類は帝国の動向に関する報告書だろうか、主にリカルドたち軍籍者にだけ回されるものだ。
世界が変わろうとも、どれだけ耳慣れない言葉や催し事に触れても、リカルドは決まって同じ言葉を繰り返す。
”元”という関係になってもなお、アンジュを依頼人と呼ばわり、ルカ達以下年少者を守護対象と捉える。手元のコーヒーカップを指先で手繰り寄せるように当然で、自然に。
「リカルドさん」
慣れた名を呼ぶ。膝に乗せた籠の中、包みが擦れあう小さな音がした。音に誘われるように彼の顔がゆるりと動く。
「トリック・オア・トリート」
カップを口元につけたまま、一瞥。そのままコーヒーを煽る。
「俺が菓子を持っているように見えるか?」
ひらり、空いた方の手を振って見せる。使い込まれた革手袋に包まれた手の向こう、青い瞳が見えた。
「いいえ。まったく」
首を横に振る。リカルドは甘いものを好まない人だ。コートのポケットにキャンディのひとつも入っていない事なんて考えずともわかる。
「ただ、もしかしたらと思って言ってみただけです」
あるいはコートの内ポケットに、あるいはさらにその奥の奥。彼自身も気づかない場所に甘味があるのなら、と思ったのだ。
「なら当てが外れたな」
空になったカップがテーブルを叩く。硬質の音はこの話は終わりだと言外に告げているようだった。
「コーヒーのおかわり、いかがですか」
申し出からわずかの間を置いて、頼む、とカップが差し出される。ほんのわずかにぬくもりを残したカップを受け取り、部屋に備え付けのサーバーからカップに注いだ。
ふと窓の外で歓声が上がった。二人揃って窓の方へ視線を向ける。
「トリック・オア・トリート!」
今日何度目かの呪文と一緒に、子供たちが駆け回っていた。先頭は包帯でぐるぐる巻きになったロイド、その後ろの着ぐるみはすずのようだ。籠を持ったイネスに菓子を貰っているのが見える。
「にぎやかですね」
きゃあきゃあと笑い合う少年たちを横目に、カップをテーブルへ置いた。熱いですよと告げると、ああ、と短い返事が返る。喧騒に背を向けたまま、そして目は紙へ落したまま指先でカップを手繰る。
薄い唇に側面が触れるのをそうっと盗み見る。籠の中の菓子を数えるふりをして、包みへ指を伸ばす。
「……おい」
低く、深い声。アンジュにしか聞き取れない程度に小さな声に、頬の側面がじりっと熱を持つ。なんでもない風を装い顔を上げた。
「どうかしましたか?」
「変なものを入れるな」
険しい顔と声も相まって、随分と物騒な言い回しだ。コーヒーにミルクを少しと、もうひとつ隠し味を入れただけなのに。
毒を入れたわけではないのだけれど、彼にとっては毒も同然なのかもしれない。
「私言いましたよ。トリック・オア・トリートって」
魔法の呪文に、リカルドは一瞬だけ瞠目し、続いて小さく舌打ちをした。ばつの悪そうな顔のまま、またカップを傾ける。
「悪戯はしないんじゃなかったのか」
眉間の皺はますます持って深くなる。そんなに嫌なら飲まなければいいのに、やはり変なところで律儀な人だ。
「まさか、あなた以外に悪戯なんてしませんよ」
ぴたり、リカルドの動きが止まる。そこまで露骨に動揺しなくてもいいだろうに、とは思ったが口にはしない。
カップの影の向こう、ほんの少しだけ覗いて見える頬がわずかに赤くなっているのも気づいているけれど口にはしない。下手に指摘して席を立たれては困ってしまう、離れられる経験は二度もいらないのだ。
たった一日だけの悪戯と魔法の呪文。それでも彼の中に少しでも甘く残ればいいと、ひそかに思う。それこそ、カップの底に溶け残ったチョコレートのように。

初出:2023/10/31 一部修正
close
横書き 縦書き