恋文

ヒュプノスの記憶の中で一番多いものは兄にまつわるものだった。
共に戦場を駆ける記憶、暗い穴倉の中で火を囲み話す記憶、少ない食べ物を分け合う記憶。
その中であの男は兄者、とタナトスを呼んだ。兄者、兄者。それはもううるさいくらいに。
これが死神と呼ばれた者の記憶か、とリカルドは内心嘲っていた。威厳などまるでない、ただ盲目的に兄を慕う弟の記憶ばかりだったのだ。
転生先であるリカルドにも……なんの因果か……兄が存在するが、こんな眩しい思い出はない。強いていうなら子供の頃に取っ組み合いをして、お互い大きな青あざをこしらえたくらいだ。
そんなヒュプノスの記憶の中、一番多くを占めていたのはタナトスの背だった。戦場でもラティオの城でもヒュプノスは兄の背を見ていた。犬じゃあるまいし、と何度呆れた事だろう。
兄の背にまつわる記憶の中、なにかを読む姿があった。鍵爪様の手は小さな紙を手にし、じっと視線を落としている。ヒュプノスは自身よりずっと小さな背をただ黙って見つめている。
構って貰えずに寂しいのか、呆れた奴だ。はじめてこの記憶を見た時、リカルドは鼻で笑った。二十代になってすぐのことだ。

だがある日ふと気づいた。
タナトスはなにを読んでいたのだろうか。それこそ弟の存在を忘れてしまうほどに。
それに思い至ったのはリカルドがグリゴリの里を取りまとめるようになって、一年が過ぎた頃。ガードルの使っていた邸宅を引き受けてしばらく経った時だった。

書架の中で年季の入った額縁を見つけた。ブロンズで出来たそれは、よく手入れされていて埃一つ被っていない。
その中に入っていたのは一枚の絵だった。すっかり色褪せてしまい色はほとんど残っていないし、なにが描かれているのかも判然としない。恐らく人物画だろう、ということしかわからなかった。
いつからこの額縁はあるのだろうか。ガードルは永きに渡る時間を生きてきた男だ、数百年以上前のものである可能性もあった。
リカルドに骨董品を有難がる趣味はない。だがなぜか惹かれるものを感じて、再び盤面を見つめる。絵の下になにかもう一枚挟み込まれているようだ。
「……」
黄ばんだ紙の下、それよりもっと古いなにかがある。顔を出した好奇心に勝てず、リカルドは額縁の裏板を外した。
そこにあったのは古びた紙だった。二つに折りたたまれたそれは羊皮紙かと思ったが、随分と粗雑な作りをしている。端は黄ばんで今にも崩れそうになっているが、かろうじて形を保っていた。
崩れそうな紙片を両手で頂く。開こうとする指が震えている。緊張しているのだ。まったく柄でもない。
開いていくにつれ紙の劣化が進んでいることがわかる。ところどころ虫食いのように穴が開き、中のインクが滲んでしまっている部分もある。
書かれている文字をリカルドはひとつも読むことが出来なかった。そもそもこれは文字なのか、という疑問さえ浮かぶ。かつて記憶の場にあった所謂古代文字とも違う、まったく未知の言語だ。
しかしすぐに分かった。これは──手紙だ。おそらく、恋文。
差出人は誰かなどと問うまでもない。ガードルが、タナトスがこうも大切に持ち続けているものなど他にはない。恐ろしいほどの時を経てもなお変わらない愛が、確かにリカルドの手の中にあった。
「ああ、だからか」
古の手紙を手にひとりごちる。
あの時タナトスはこの手紙を読んでいたのだろう。地上に暮らす人間から貰った恋文を食い入るように、ただじっと。弟の視線も気づかないほどに。
胸の奥底からこみ上げてくる感情を、どう表現すればいいのか分からなかった。嬉しいような悲しいような、腹立たしいような恥ずかしいような煩雑な感情。
「……兄者」
もう居ない人の、呼ばなくなった名を呼ぶ。
ああまったく、なんてよく似た兄弟だろうか。

自室に戻り、リカルドはライティングビューロを開いた。引き出しから便箋を取り出し、ボトルインクの蓋を開ける。
筆は迷うことなく紙面を進む。書き出しはいつもと同じ、前略。
書架での仔細について綴った後、いてもたってもいられなくて手紙を書いた、と続ける。
これを見て彼女は笑うだろうか。子供じゃあるまいし、見かけによらず女々しいと言われるかもしれない。確かにその通りだ、言われても仕方がない。
どうして今になっていうのかと叱られるかもしれない。それももっともだ、もう一年経つ。遅きに失したのなら、それでもいい。
「自分勝手だな、まったく」
万年筆の軸でこめかみを掻く。唇が自嘲で歪むが、妙に清々しい気分だった。
書き出した言葉は、思いのほかするすると出てくる。今まで言えなかったことすべてだ。思うままに書いていったせいで脈絡のない文章になったが、仕方がない。
この手紙を受け取って、彼女はどう思うのだろうか。
驚くだろうか、泣くだろうか、困惑するだろうか。気持ち悪がってすぐさま捨ててしまうかもしれない、それもひとつの選択だろう。ましてやガードルのように後生大事に取っておいて欲しいなんて思わない。
最後に一文、締めの言葉を書く。封筒に便箋を入れ封蝋を押し、表に宛名を記入した。

アンジュ・セレーナ様。

筆先が紙面を離れてようやく、リカルドは息をつくことが出来た。こんなにも長く呼吸を止めていたのかと、我ながら呆れ返ってしまう。
出来上がったそれを机の上に置くと、椅子の背もたれに体重を預け天井を見上げた。
恋とは、こういうものだったのか。
なるほどあの死神ともあろうものが我を忘れるわけだ。リカルドは再びひっそりと笑った。

初出:2022/06/03
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