三段飛ばしで恋をする
手のひらを返すたびに室内灯の光を受けたマリッジリングがきらりと光る。ねぇ、とすぐ隣に座る人に呼びかけると、なんだ、と短く返事が返って来た。
「わたしたち、結婚するのに恋人らしいこと少しもしてないですよね」
「そう言われればそうだな」
リカルドと結婚を決めたのは一年前の事だが、それまでお互い離れ離れに暮らしていた。かたや戦場とグリゴリの里を行き来する傭兵、かたやテノスを拠点にナーオスの復興に奔走する聖職者だ。顔を合わせてもそこには必ずお互いの都合が横たわっていて、触れ合う事は出来なかった。
普通の恋人たちが積み重ねているだろう経験を、ひとつも経験せずにここまで来た。恋人同士として過ごした時間など、ほんのわずかもなかった。
プロポーズされて、指環を交換して、式の日取りを決めるというところまでは済ませたが、それ以外の事は何一つ出来ていない。互いに愛し合っているという自覚はあるが、それを確認しあったかは今となっては定かではない。
そうして気付けば式の日は目前まで迫っていた。
明日、アンジュはリカルドの妻になる。出会ってから三年、契約関係から始まり、恋人の過程を一段も二段もすっ飛ばして、夫婦になる。
この事実をルカたちに告白したら、一体どんな顔をするのだろうか。聡いルカとエルマーナはきづいているかもしれないが、可愛い弟分たちを困らせるような真似はしたくない。それはリカルドも同じだったため、何も告げていない。もっとも彼の場合、イリアとスパーダから罵詈雑言を受けかねないので黙っているだけに過ぎないのだが。
「それなら、今からするか?」
真っ青な瞳と目線がかち合う。表情はほんの少しも乱れていないので、恐らく本気の提案なのだろう。恐ろしいほど真っ直ぐな目に、アンジュはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「本気で仰ってるんですか?」
「冗談でこんな事をいうように見えるか」
だとしたら余計に性質が悪いです、と唇を尖らせると少しだけ気恥ずかしいのか視線を逸らした。腰を抱き寄せるのは照れ隠しなのだろうか、そのまま首筋に抱きつくと膝の上に座るように指し示される。
「お式は明日ですよ?」
「充分だろう」
何が充分なのかと聞き返すこともなく、リカルドの膝の上に座る。触れ合わなくても互いの体温が分かるほど近くに顔がある。
「じゃあ何しましょうか。まずはデートから?」
「また初歩から来たな。それ以外には……そうだな、ケンカもしていないな」
言われてみれば、と頷く。一緒に旅をしていた間は小さな言い争いはしょっちゅうだったが、ケンカらしいケンカはしたことがない。
「理由はリカルドさんの浮気ですね」
「君がつまみ食いばかりするのが理由だろう」
何それ酷いです、と言い返すとリカルドは小さく笑った。笑うと目尻が少しだけ柔らかくなる。
「そういえば、キスもしてないんじゃないか」
「あら、そうかも」
最後にキスをしたのはいつか、なんて甘い話ではない。何せ恋人同士がすること全てをしていないので、キスの経験すらないのだ。キスもその前もその先も全部が真白のままだ。
「変なの。キスもしたことない人と結婚するなんて」
「嫌か?」
「いいえ、ちっとも」
思いはあっさりと舌に乗り、喉を震わせ、声になって落ちる。不快感も不信感も、胸に過ぎりすらしない。胸の中は驚くほどに凪いでいて、少しのさざ波も立ちはしない。
「それともリカルドさんは嫌ですか?」
「まさか」
首筋に回した腕に力を込めると、応えるように強く抱き寄せられる。ふと、マリッジリングが目に入った。
左手の薬指に填まったそれは、まるで生まれたときからそこにあったような顔をして鎮座していた。少し捻りを加えたデザインなのが、まるで自分たちの関係のようだ。歪な縁で出逢って、最後は真っ直ぐひとつに繋がる。
「それじゃあ」
スカートの裾を直して、頬に触れる。白い頬は見た目よりもずっと温かい。
「愛している、セレーナ」
「わたしもです、リカルドさん」
口元を笑みの形にしたまま、軽く触れ合わせる。恋人同士として初めて交わす口付けは驚くほど甘かった。
不可思議な契約関係から始まって、恋人の過程を一段も二段もすっ飛ばして。明日二人は永遠に結ばれる。